未整理な愚見の垂れ流し

TLに流すには長過ぎる愚見の垂れ流し場であり、未整理な頭の中の考えをぶちまける場所です

立憲民主党に問い合わせをしてみた

内容はタイトルの通り。頭に血が上った状態で投稿フォームの字数制限800字に無理やり押し込んだ結果、中身が薄くなってしまった。

が、言いたいことは向こうに伝わるだろう、というか伝われ。

問い合わせの内容は以下の通り。

 

1 今回の問い合わせの概要

 今回の問い合わせは、御党HPの「活動ニュース」(https://cdp-japan.jp/news/20180607_0569)に添付された、再要求事項資料1(以下、本件資料)の内容が、政治倫理に反するものと考えたことから、本件資料の出所および配布・掲載等の経緯説明を求めるとともに、本件資料の内容やそれを配布した行為につき党として訂正又は釈明若しくは謝罪等を行う予定があるかを問い合わせるものです。

2 本件資料の問題点

 本件資料はその2頁目に「世界の現状を鑑みるに、IRカジノを導入したら、日本は普通の国、邪悪な国・殺伐とした国に成り下がる」との記載があります。

 この記載は、同ページ中頃に存在する「シンガポールマカオ(中国)、韓国などの殺伐とした国を後追いするような、落ちた国ではない」との文章と併せて読むと、既にカジノを導入しているシンガポール、中国、韓国を「邪悪な国・殺伐とした国」と名指しているものと読み取れ、かかる表現は特定の国・地域を著しく侮蔑するもので、御党党規約42条1項にいう「政治倫理に反する」内容であると考えます。

 確かに、本邦に従来存在しない制度を導入しようとする際、既に当該制度を導入している他国の事例から問題点を検討するということ自体は有益です。

 しかし、政策の問題点を検討するには当該政策の問題点のみを指摘すれば必要十分であり、特定の国家・地域を侮蔑することには必要性も許容性も到底認められません。

3 御党への要望

 本件資料には御党所属議員の氏名に加え、出典として横浜港運協会の名称が付されています。そこで、御党には本件資料の出所と添付の経緯等を公に説明するとともに、本件資料中の特定国家への侮蔑的表現に関する御党の公式見解を表明し、必要であれば何らかの処分を行うことを要望します。

 

レディ・プレイヤー1を観て感じた「なんだかなぁ……」について

第1 はじめに

 以下には現在公開中の映画「レディ・プレイヤー1」(以下、本作品とする)に関するネタバレをそこそこに含んだ感想(と称した駄文)が垂れ流される。

 本作品への個人的感想を正直に申し上げると、「 CGの素晴らしさや昔見た版権キャラを散りばめたシーンの数々は懐かしく楽しんだが、全体としては凄くモヤモヤさせられた」という比較的否定的なものであった。

 そのため、本作品を心置きなく楽しんだ方が以下の愚見を人生の貴重な時間を費やして読むことは全くお勧めできない。

 映画の感想など十人十色で当然だし、自分が好きな映画に対する否定的な意見に心を痛めたり、或いはその者を「改宗」させようとトライすることは、多くの場合は心労を積み重ねるだけの徒労に終わるからである。

 したがって、本作品を心置きなく楽しんだ方や本作品のネタバレを恐れる方は以下の個人的な「お気持ちの表明」を読むことより、例えば足の爪に挟まってしまったゴミを掃除するなど、あなたの人生にとってより有益な活動に時間を使われることを強くお勧めする。

(一応、本作品を見て好ましく感じた部分を「お気持ち」の末尾にフォロー気味に入れてあるので、そこだけ見ていただく分には時間も取らず、精神を汚染しない……かもしれない)

第2 モヤモヤの概略

 本作品の鑑賞中に感じたモヤモヤのなかで特に強烈だったものを2つ挙げると、①物語がハッピーエンドげに締めくくられることへのモヤモヤ②主人公周辺のティーンエイジャー達が「ティーンエイジャーの皮を被った中高年オタ」に見えてくることへのモヤモヤとなる。

 以下、そのモヤモヤにつき幾らか詳しく述べていく。

第3 違和感①について

1 本作品で描かれる「現実世界」は資源枯渇と人口過多に打つ手がなくなったディストピア状態で、そこに生きる人々の多くは「頭打ち」になった現実世界そのものから逃避するためにVRオンラインゲームである「オアシス」に寝るときやトイレの時などを除く人生の大半の時間を費やして熱中している。

 そして、本作品の基本的なストーリーは、「オアシス」の創始者であるジェームズ・ハリデーがゲーム内に仕込んだ「イースターエッグ」を集め、オアシスのコントロール権とハリデーの遺産を勝ち取ろうとするゲームプレイヤー達と自社の利益のために「オアシス」を支配しようとする巨大企業IOI社とのゲーム内での争いを軸に進んでいく。

 最終的に主人公パーシヴァル(リアル名:ウェイド)は仲間達の助力やゲームを攻略するなかで学んだ創始者ジェームズ・ハリデーの過ちを活かし、「オアシス」のコントロール権とハリデーの遺産を受け継ぐことに成功する。そして、ゲーム攻略にオンライン空間でも現実空間でも大きな貢献をしてくれたアルテミス(リアル名:サマンサ)と結ばれ、その他の仲間たちと「オアシス」の共同経営に乗り出すところで映画は終わる。

2 さて、本作品の大半を占める「オアシス」での攻防は現実世界における致命的な問題(資源枯渇や人口過多)の解消と基本的に(というよりほぼ完全に)関係がない。つまり、物語がフィナーレを迎えても現実世界は物語冒頭で描写されたディストピア状態から一歩も改善しない。

 数少ない変化は、現実逃避先である「オアシス」の支配権が利益至上主義のIOI社の手に渡らなかったことで、「オアシス」が変質する危険は回避されたこと、「現実でしか味わえない感覚も大事にしよう!」という抽象的スローガンのもとパーシヴァル(ウェイド)によって「オアシス」に週2日のサービス停止日が設定されたことである。

 しかし、「週に2日は現実に帰ろう!」と言われても、その程度でどうにかなるディストピアならこんな事になっていないとしか言いようがない。多くの人々はこの世界の現状を変更・改善することをとっくの昔に完全に放棄してしまっており、だからこそ「オアシス」は最高の現実逃避先として人々に熱狂的に支持され、大企業はその価値を我が手にしようとしていたのである。

 パーシヴァルのフィナーレでのセリフは、最低な現実世界のなかで相対的に非常に高い地位を得た成り上がり者が、成功した途端に、今もかつての自分と同じくらい過酷な現実を生きている昔の同胞たちに、中途半端な形で、最低で変え難い現実と向き合うよう説教しているようにも映った。

 要は非常にシバキアゲ気質っぽいものを感じてしまったのだ。そこが非常にモヤモヤした。「現実でしか味わえない感覚もある。だから現実も大事にして」という方向に話を収束させること自体には何の異論もないので、もうちょっと上手い落としどころはなかったのだろうか。

第4 違和感②について

1 物語は2040年代を舞台にし、物語の中心人物はティーンの子供たちである。

 しかし、その彼らがここぞというときに頼りにするのが「バックトゥザフューチャー」(一作目は1985年公開)のデロリアンだったり、1stガンダム(1979年)などの「昔懐かしのアレ」というのはどういうことなのだろうか。

2 自分もクラスメートが「GANTZ」や「バキ」に夢中になっている時期に「デビルマン」や「サイボーグ009」を読み漁る中学生時代を送っていたので、そういう子供がいること自体があり得ないなどという気はない。しかし、一定の「説明」がないと不自然なキャラクターではあろう。

 例えば、「ゲームのヒント探しをしようとジェームズ・ハリデーの青春時代を辿る内に、彼の時代のオタクカルチャーにはまった。」という描写でもあれば割とあっさり納得できたと思う。しかし、そうした説明もなく2040年代のVRネットゲームを遊ぶティーンエイジャー(しかもトッププレイヤー集団である)が1970~80年代の作品に強い愛着をもっていることには違和感しか感じず、「こいつら、ティーンの皮を被ってはいるけれど中身は1980年とかに青春を過ごした我々観客の世界の中高年オタなのでは?」との疑念を拭えなかった。

3 この「こいつら中高年オタなのでは?」疑惑と前述した「パーシヴァル君、シバキアゲ気質」疑惑が合わさったことで、本作品のラストのセリフが「成功し、増長したイキり中年オタクによる、かつての同類達や若者へのウエメセシバキアゲ説教」にも感じられ、本作品を思い返すときに感じる「なんだかなぁ……」度数が飛躍的に上昇してしまった。

 少し上で書いたように、この「ティーンのふりした中高年」問題は、間に簡単なロジックを1つ挟めば解消される問題だと思うのだが、自分が見落としていただけなのだろうか。

第5 若干のフォロー

 本作品が頭の先から爪先まで駄目なものに感じたかというとそんなことはない。

 美麗なCGで懐かしいキャラクターが動き回っているのは単純に嬉しかった。IMAX3Dで見る序盤のレースシーンなどは結構ニコニコして観てしまったくらいだ。

 全体的に掘り下げ不足だと感じたが主要登場人物の描き方に現代っぽい感じがしたのはよかった。

 例えば、屈強強面でいかつい男性ボイスのアバターを使用しているパーシヴァルの悪友エイチがある女性NPCにドキドキしてみせるシーンとその後に分かる「彼」のリアルには今日的なキャラクターを読み取ること「も」できるし、アルテミス=サマンサをステレオタイプなトロフィーガールにせずちゃんとしたバックグラウンドをもった戦う女性キャラクターにした(少なくとも自分にはそう映った)点などには「今の映画だな」と好印象だった。

 また、同じ映画館で観ていた小学生たちやファミリー層は結構楽しんでいたようであり、自分は彼らに比べて優れた見る目をもっている等と豪語する気は殆んどない。

 第1でも述べたことではあるが、映画の感想など十人十色で当然であり、自分の畢竟独自の見解には何の権威も無いのであるから、うっかりこの記事を頭から最後まで読んでしまわれた本作品のファンの方々には「あなたの人生に迷い出るとは悪いことをした。気にせず、本作品の良いところを世の中に伝えてくれ」と思っている。

 なお、事実誤認に関しては気付き次第修正する気はあるので、教えていただけると助かります。

                                     以上

新曲は野獣の情状弁護となり、古い歌は生き続けるか?~『美女と野獣』(ネタバレあり、書き下ろし曲の感想を中心に)

1 はじめに

 実写版『美女と野獣』(2017年)を見てきた。アニメは何度か見た記憶があるが、実写版を見たのは今回が初めてであり、劇団四季がやっている舞台なども未見。

 本記事では、映画への感想もちょこちょこ混ぜつつ、『美女と野獣』(2017年)に向けて新規に書き下ろされた楽曲3曲への「野獣に情状に関する弁護」という視点からの感想を述べたい。

2 ザックリとした総評

 楽曲への感想を語る前に、自分の本作品へのスタンスを記しておくと、観る前は元々ディズニー作品が好きだったこともあり期待する気持ちもあった半面、「①今の時代にリメイクするに際して、元の作品がもっていた問題を解消(少なくとも緩和)できているのか?②①を達成する為に行った改変・修正等の結果、新たな問題が生じていないか?」という点で懸念もしていた。

 観た後の感想としては、結論からいうと、懸念点①に関しては「概ねクリア」、②に関しては「許容範囲!」で、良い部分が沢山あったので総合して「何回か見返したい作品だな」と思った(現に、公開初日に観た次の日に2回目を観に行っている)。

 自分は、新規書き下ろし3曲は野獣の罪責に対する情状弁護の役目を一定以上果たしたと思っているが、自分以外の一般観客にどう受け取られたかについては分からないので、感想が気になるところである。

 前置きがひどく長くなったので、いい加減、楽曲の感想に移ることとする。

3 How Does a Moment Last Forever(Montmartre)

 新規書き下ろし曲のひとつめである『How Does A Moment Last Forever』が流れるシーン(エンドロールを「シーン」に含めてよいかは自信がないが……)は3つある。厳密にはサウンドトラック上でも区別されているように、この3つは別の曲と扱うべきなのだろうが、ここでは、「野獣の情状に関する弁護」という自分で設定したテーマと特に関係が深い、『How Does a Moment Last Forever(Montmartre)』に絞って記述することとする。

 ベルが、野獣が魔女から「逃避の為の贈り物」として渡された魔法の本の力によって、(おそらくは思い出の中の)パリにある自分の生家を訪ね、母の死の真相を知った直後に歌うのが、この曲の登場シーンだ。

 ベルは、母の最期について父モーリスから教えて貰えずにいたのだが、野獣の手助けによって、ついにその真相を知ることとなる。ベルの母はパリでベルを産んでから間もなく疫病に侵され、モーリスは感染拡大を防ぐために病状が悪化して死にゆく妻を置いてパリの家から離れなくてはならなかったのだった。

 この曲が流れるシーンの主役はベルなのだが、このシーンは野獣にとってはベルに対する(ささやかな)贖罪を行う場面でもあると思う。

 すなわち、野獣はベルを城に監禁することで、愛する父の下から引き離し行動の自由をも奪ったのだが、ベルに亡くなった母の存在と父モーリスの愛情の深さを確信する機会も提供したということである。

 もちろん、だからといって野獣がベルを監禁したことの問題が綺麗さっぱり帳消しになる訳ではなく、そのことはアニメ版の時から屈指の名シーンであるダンスシーンの直後、野獣の告白を受けてのベルの台詞「自由でないのに幸せにはなれない。」で再確認されるのだが、野獣のささやかな贖罪は彼の情状として斟酌すべき一事情になることは確かだろう。

4 Days in the sun

 新規書き下ろし曲の2曲目であるこの曲は、城から追い出されて森の中で狼に襲われたベルを助けて負傷した野獣が眠るそばで、野獣達が今の姿になった経緯をベルが城の従者達から聞いた直後に始まる。

 この曲はザックリ3つのパートに分解することができる。1つめが野獣の回想にかかる部分で、野獣となる前のアダム王子(野獣の正体)が(おそらくは病で)死んだ母の亡きがらに語りかけるように歌うパート。2つ目は城の従者達が呪いをかけられる前の楽しかった日に思いを馳せつついつか来る呪いが解ける日の希望を歌うパート。3つ目がベルが野獣達の身の上に起きたことを知り、また憧れるだけだった外の世界で危険に直面したことで自身に起きつつある変化に戸惑う気持ちを歌うパートである。どのパートも素晴らしいのだが、本稿では1パート目に限定して詳述する。

 このパートでは、今まで語られなかった野獣の過去が明かされることとなる。

 野獣、すなわちアダム王子は幼少期は心優しい少年であったが、母の死を境に残忍な父親によって人格を捻じ曲げられ、物語の冒頭で魔女に呪いをかけられるまでに傲慢・冷徹な君主になり果てたということが明らかになるのである。

 これは、「彼も根っからの極悪人であった訳ではなく、生育環境の問題から半ばやむを得ず今のような人格を形成するに至ってしまったのであり、彼にも汲むべき事情がある。」との弁護を行うものであり、今の時代に『美女と野獣』を実写リメイクするにあたって野獣の行為の問題を緩和する為の設定として重要なものといえる。

 もちろん、このような後付けを「『死人に口なし』とばかりに、死んだ親父に悪の一端を押し付けている!」という風に意地悪な見方をすることも出来なくはない。

 しかし、人がその成育環境によって人格形成に大きな影響を受けることは否定できないのだから「野獣の人格の歪みは野獣個人の問題である。」と断定しさることの方がむしろ無理があるといえる。また、新たに語られた設定も、既存の設定を「実は……」風に改変(悪く言えば変造)した訳ではなく、語られていなかったことを付加したに過ぎないことから、改変として行き過ぎているとまではいえず、個人的には意地悪な見方に与することはできない。

 ちなみに、野獣の「父親」という存在へのコンプレックスはベルを幽閉した直後でのベルへの態度にも現れている。

 城に少女がやってきたことで「呪いを解く切っ掛けができたかも知れない。」とベルの懐柔を進言する従者達に「あの娘の父親は盗人だから、その娘もろくでもないやつに決まっている」という趣旨の発言をし、ポット夫人に「誰が父親であるかでその人を決めつけてはいけない」と諌められ考え直すシーンがある。

 以下は完全に個人的な思いに依拠した解釈であるが、野獣は父親による教育を端緒に自身が歪んだ価値観を備えてしまったことにも、母親という心の防壁を失ってしまったことで自分が(おそらくはあまり好きでなかった)父親にどんどん似てきてしまったことにも(ある程度は)自覚的だったのではなかろうか。だからこそ、ベルに対しても「子は親の性質に染まってしまうものだ。」という決めつけをしてしまったのだろう。

5 Evermore

 パンフレット等の解説を見た訳ではないが、おそらくは本作の製作陣が「野獣の情状に関する弁護」において一番力を入れたのがこの曲ではないであろうか。

 魔法の鏡によって父モーリスの危機を知ったベルを、野獣が魔法の薔薇が枯れきってしまうまでに彼女が戻らない可能性が高いと知りつつ解放した直後に歌う曲である。

 自分を変えてくれたベルへの感謝と愛情を歌うと共に、しかしその変化が「あまりに遅すぎた」ことを後悔し、「長い夜が来る」と自らの運命への諦めを歌った曲である。

 この曲の“I learned the truth too late”というフレーズは、旧主題歌『Beauty and the Beast』の一節“Finding you can change.Learning you were wrong”を受けてのものだろう。「確かに自分の過ちに気付くことはできた。しかし、それは遅すぎたのだ。」という激しい後悔と反省を感じさせるものだ。また、この“I learned the truth too late”というフレーズは単に呪いの期限との関係での手遅れを表現しているのみならず「こんな手段(つまり、ベルの監禁である)に出る前にもっと前の段階で過ちに気付けた筈だ。」という意味にとることも不可能ではないだろう。

 いずれにせよ、この後悔と反省そして呪いの完結という自分を待つ運命への諦観を歌ったこの曲に、野獣の悔悟の情を示す効果があることは明らかだろう。

 「確かに悪いことはした。しかし、自分のやってきたことをここまで悔いているんだ。罰を受ける覚悟までしている。もう彼を許してやってもいいんじゃないですか?」と観客に訴えかける効果は絶大であり、自分のように短絡的な人間はまんまと落涙してしまった。

 もちろん、この歌が「ずるい力技」であることは否定し難い。曲のパワーと野獣の表情によって、問答無用で観客を「もう許す!」という気分にもっていってしまおうとするのだから、『美女と野獣』のもっていた問題点への緩和措置としてこの一曲一発で全てを不問に付させようとしていたなら、流石の自分も「それはあまりに……」と白けていたかも知れない。

 しかし、ここまで書いてきたように新実写版『美女と野獣』は、先に挙げた新規書き下ろし曲2曲によって「野獣の生い立ちにも汲むべき事情はある」「やってしまったことの中でも一定の贖罪はした」ことを示している。

 また、楽曲そのものとは直接関係しないところでも、野獣の「汲むべき事情」と「ささやかな贖罪」は映画の随所に配置されている。

 そうした「気遣い」の結果、『Evermore』による力技はそれほど強引でなく、観客に野獣を「もう救われていい人だ」と考えさせることに成功していると思う。

6 おわりに~物語は生き続けるのか?

 以上、縷々述べてきた通り、個人的な総括としては、新実写版『美女と野獣』における新規書き下ろし楽曲による野獣の情状弁護は「成功している」ということになる。

 しかし、これはあくまで「ディズニープリンセストーリーを見て育ち、(その癖に)傲慢で憤激しやすい捻くれた性格をもった男になり果てた」一人の男の感想に過ぎない。

 果たして、他の観客はこの物語をどう受け取ったのだろうか?

 個人的には、旧主題歌『Beauty and the Beast』の一節である“Finding you can change.Learning you were wrong”が非常に気に入っていることもあり、この歌(そしてこの物語)が問題を多分に孕んだ作品として風化するのは忍びないと思っている。

 新規書き下ろし曲と練り直されたプロットが広く受け入れられることで、『美女と野獣』という物語が末永く語り継がれることを願って止まない。

ヘイトスピーチとその規制に関する議論における、いささか奇妙な現象について

第1 はじめに

1 昨今問題となっているヘイトスピーチ、その定義は、師岡康子弁護士著 「ヘ イト・スピーチとは何か」(岩波新書)の「はじめに」を参考に、仮に「人種・民族・性などのマイノリティに対する差別に基づく差別扇動」とする。

2 本邦では、いわゆる「在特会」をはじめとする諸団体が公然と侮蔑と脅迫の言葉を特定の少数民族に向けながら、いわゆる京都府朝鮮学校襲撃事件などの少数の例外を除き、それらのヘイトスピーチは公然と放置されてきた。

 しかし、当事者や議員等の関係者による長年の苦闘と折衝の果てに「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(http://www.moj.go.jp/content/001184402.pdf 以下、「対策法」とする)がようやく成立し、平成28年6月3日(金)に施行されるにいたった。

3 個人的には、対策法はその保護対象である「本邦外出身者」の定義が狭きに失したと思っており、今も街でネットで垂れ流されるヘイトスピーチの対策としては不十分ではとの懸念を持ち続けているし、法3条に規定された国民の努力義務に基づき公の機関(地方公共団体のみならず都道府県警察を含む)が何をどこまで出来るのか判然としない。

 とはいえ、今まで存在しなかった反差別を謳う法が制定されたことそれ自体は喜ばしく、この後の展開は、素人である自分としては専門家による精緻な分析や判例の蓄積とその評価を待つほかないと考えている。

 このような現状認識を前提に、以下では本邦におけるヘイトスピーチとその規制に関る議論の内、個人的に、いささか(正直に言えば相当に)「奇妙」に思えた二つの現象につき、思う所を垂れ流したい。

 

第2 「表現」か否か~ふるう必要の無い大剣とその重みを巡る不毛な議論~

1 ヘイトスピーチに関する法の制定(規制に踏み込まず、反差別の理念を定めるに留めるものも含む)を巡る議論が始まってから今に至るまで、しばしば、ヘイトスピーチ憲法21条1項にいう「表現」に含まれるのか?という問いが発せられた。

 これは、「仮に何らかの形でヘイトスピーチに関する規制がなされたとして、それが憲法21条1項で保障された言論の自由を制約することにはならないのではないか?」という問いだろう。

 公権力による国民の行為への作為・不作為(立法を含む)が憲法に違反するか否かを、①当該行為が憲法上保障された権利の範疇にあるか、②公権力の作為・不作為が当該行為を制約するか、③公権力による制約は正当化されるか、の三段階で考えるとすると、先の主張は①の段階で決着をつけようという主張と整理できるのかも知れない。

2 だが、このような戦線をはる必要性・合理性がどこにあるのだろうか?

(1) たとえば、斉藤愛「表現の自由の現況―ヘイトスピーチを素材として」(『論究ジュリスト』13号・2015年春号56頁)が指摘するように、日本国憲法21条1項は、「日本国憲法など即刻破棄してしまえ!」というような、現行憲法秩序の解体を志向する表現すら許容している。

 また、刑事法の世界に目を向けると、名誉棄損罪(刑法230条)に関する違法性阻却事由を定めたとされる(処罰阻却事由を定めたとする見解もあるが、愚見にはさして関係無いので割愛)刑法第230条の2がある。

 この規定は一般に、名誉棄損罪の保護法益である個人の名誉と憲法21条による正当な言論の保障との調和を図ったものといわれているが、逆にいえば刑法は我々素人の目から見れば名誉棄損と映る表現にも、表現の自由の行使として免責の余地を残していると言えるかもしれない。

 そうであれば、名誉棄損や侮辱の延長形態ともいえる(脅迫の要素もあるのでそれだけとは言い切れないが)ヘイトスピーチに、表現の自由の保障が全く及ばないとするのには相当な力技を用いなくてはならないのではないか。

 ヘイトスピーチ規制の議論に関して、ヘイトスピーチ憲法21条1項で保障される「表現」に入らないとの戦線をはることが戦略上合理的とはいい難い。

(2) また、仮に「ヘイトスピーチ憲法21条1項にいう『表現』に含まれるのである」としたところで、そこで話は「故にヘイトスピーチ規制は違憲」とはならないのである。

 憲法により保障される種々の自由権と雖も絶対無制約なものではなく「公共の福祉」(憲法13条後段)による制約は受ける(その意義に争いあるも、少なくとも他者の人権との調整が含まれることは争いがないはずだ)のである。そして、刑法典に脅迫罪や名誉棄損罪、侮辱罪が存在することからも表現の自由がありとあらゆる表現を絶対無制約に認めるものでないことは明らかである。

 そうであるならば、ヘイト規制に賛同する側は、先述した国家による制約が憲法に反するか否かを検討する3段階目、③公権力による制約は正当化されるかのレベルで十分に勝負が可能であろう。

 名誉棄損罪や侮辱罪と同様に個人の名誉や名誉感情を反対利益としてあげることができる(ヘイトの定義によっては、脅迫罪の保護法益である意思決定・意思活動の自由も含められるか)ヘイトスピーチ対策(この際ヘイトスピーチ「規制」でもよい)の議論は、③の戦線で戦えば十分である。

 ヘイトは「表現」ではないとの戦線を、無理矢理な力技を使ってはる必要性はさしてないのではないか。

(3) 以上述べたように「ヘイトは表現か否か」という空中戦を戦う必要性・合理性は特段存在しないと考える。

 むしろ、「ヘイトは表現ではない」などという抜く必要の無い大剣を振り回すことで議論がしばしば逆流し、あるいは「公権力の定義付けである表現が憲法21条1項にいう『表現』でなくなることを許すのか」といった、本来は省ける「大き過ぎる剣の重み」を巡る不毛極まりない議論が始まり、被害者の十分な救済は遅れるだけである。

 「ヘイトも表現であり、その規制は表現の自由の制約にあたる」とした上で、どの程度の制約なら許容されるか、制約の範囲が不当に拡大せぬよう「ヘイト」の定義はどうするべきかを議論した方がよほど実りがあると思う。

 

第3 片方が欠けた両天秤~「現代のヴォルテール」達が「見落とした」もの~

1 ヘイトスピーチ規制に関する議論が始まって以来、一部界隈でテンプレートのように引用され、水戸黄門の印籠が如く重宝されているものがある。

 ニーメラーやヴォルテールが残した(とされる)警句・格言の類だ。

 これらは表現の自由の重要性を説くものであり、自分も表現の自由が重要であることそれ自体には賛同する。

 しかし、先程、憲法上の人権とて「公共の福祉」による必要最低限度の制約は甘受せざるを得ないことや、その具体例ともいえる名誉棄損罪の存在で示したように、一切の表現が(それこそ、何の許可も得ずに他人の家の壁にペンキを塗りたくる行為まで)無制約に認められることはなく、原則には例外が存在するのである。

 そして、自分の極小さい観測範囲内でのことではあるが、ヘイト規制に賛同する人々は原則論の存在を認めた上で例外の必要性を主張しているのである。

 「現代のヴォルテール達」(さしあたり、上記したような警句・格言の引用・改変のみでもって「論敵」への「応答」は足れりとする者のことを指す)は、ヘイト規制賛同者が原則論を知っていることを前提に、例外を認める必要性の有無や、例外を認める範囲の議論に応答するべきではなかろうか。

2 また、「現代のヴォルテール達」が「見落とした」事柄として、「ヘイトスピーチによって、少数者は人格への著しい侵害を被るのみならず、日本社会において自由にものを言うという『表現の自由』そのものも制約されている」という事実があげられる。

 多少なりとも想像力が働くのであれば、少数派民族が、その居住する国で当該民族を対象とした「殺せ」「不逞〇〇人を国外に叩き出せ」との暴言を浴び、それに対して大方の多数派民族が静観を決め込む姿を見せられれば、(少なくとも一般的には)社会に向かって意見することに萎縮することは分かるであろう。

 「現代のヴォルテール達」は「我々の表現の自由が危ぶまれる!」と天秤の片方に乗る権利の重大性を強調して警鐘を鳴らすのだが、既に抑圧されている「少数派民族の表現の自由」などの、天秤のもう片方に乗る権利利益に関してはそれを「見落として」しまっているようだ。

 さもなくば、ヘイトスピーチの規制に関する議論は、とっくの昔に「政府による表現の自由の制約を認めるか否か」という表層的な議論から先に進んでいる筈である。

3 さて、このような「見落とし」は何故起こったのであろうか。

  まさか、「現代のヴォルテール達」は「人権とは少数者が頼る最後の切り札だ、多数派が『そんなものいらない』というものであっても守らねばならぬ!」と述べた同じ口で「が、わが国に居住する少数派民族の人権はこの限りでない」などという愚劣な二枚舌を使う訳ではあるまい。

 再三強調しているように、あくまで彼らは「見落とした」のだ。

 何故、彼らは「見落とした」のだろうか。

 おそらくは「人権の対国家的性格」であるとか「人権を制約してくるのは国家だ」という危機感が強く、その啓蒙に熱心であるあまりに、人権相互の調整という形での人権制約があり得ることをウッカリ失念してしまったのだろう。

 このような「見落とし」は、捜査官が、「その職務に熱心なあまり」に己が従うべき法令の存在を「失念」したり、法令が許容する範囲を「ウッカリ踏み越えてしまう」というのと同じ「熱意が起こしてしまったミス」なのかも知れない。

 いずれにせよ、ヘイトスピーチ規制の議論は虚空から降ってきた訳ではない、それによって保護されるべき利益の存在とその侵害が現在進行形で起きていることが前提になっている以上、そこに何らの目配りもしない不誠実な態度が許容されるとは到底思えない。

 

第4 おわりに

 表現の自由ヘイトスピーチ規制の問題に関して、しばしば「公権力がヘイトの定義を拡張し、国民の表現の自由を侵害してくるおそれがあるから規制には慎重であるべき」とか、「ヘイトの定義について全国民を巻き込んだ長期的な議論をしてから規制すべきで、対策法は拙速」といったことを説かれる方々がいる。

 懸念されることは分かる。しかし、前述したように少数派民族の言論の自由は既に抑圧されているのだ。

 してみると、彼らが問題にしている「国民の表現の自由」の内実は専ら「(人種としての)日本人の表現の自由」なのではないか。

 仮にそうであるとすれば、彼らの主張はこう言っているのと変わらないのではないか。

 「俺達、『大方の日本人』の表現の自由に火の手が及ぶかもしれないからさ、もうしばらくヘイト被害を我慢して受けててよ。」

 「そのような恥知らずな主張をしている訳ではない!」というのであれば、法ができるまでの少数派民族が被る被害への有効適切な手当を代案として示す必要があろう。

 一般論としては、あらゆる政治的議論に新作の代案が必要とは思わない。「現行の体制で十分」であるとか「そもそも問題は生じていない」との返答もあり得るからだ。

 しかし、ことヘイトスピーチに関してはそうではあるまい。被害の事実は国会議員による調査でも明らかにされている。現行法制度下での救済が十分でないことを指摘する論考も多く発表されている。

 そうであるならば、ことここに至って尚ヘイト規制に反対する側には「私もヘイトスピーチはいかんと思っている。」というアリバイ的な枕詞以上のものが求められるのではないだろうか。

 長い割に中身の無い文章で指摘した、二つの奇妙な現象が早々に解消され、専門家が本来の戦場でないところで不毛な争いに終始せず建設的な議論をリードされていくことを、一人の名もなき素人としては願わずにいられない。

(終)