未整理な愚見の垂れ流し

TLに流すには長過ぎる愚見の垂れ流し場であり、未整理な頭の中の考えをぶちまける場所です

ヘイトスピーチとその規制に関する議論における、いささか奇妙な現象について

第1 はじめに

1 昨今問題となっているヘイトスピーチ、その定義は、師岡康子弁護士著 「ヘ イト・スピーチとは何か」(岩波新書)の「はじめに」を参考に、仮に「人種・民族・性などのマイノリティに対する差別に基づく差別扇動」とする。

2 本邦では、いわゆる「在特会」をはじめとする諸団体が公然と侮蔑と脅迫の言葉を特定の少数民族に向けながら、いわゆる京都府朝鮮学校襲撃事件などの少数の例外を除き、それらのヘイトスピーチは公然と放置されてきた。

 しかし、当事者や議員等の関係者による長年の苦闘と折衝の果てに「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(http://www.moj.go.jp/content/001184402.pdf 以下、「対策法」とする)がようやく成立し、平成28年6月3日(金)に施行されるにいたった。

3 個人的には、対策法はその保護対象である「本邦外出身者」の定義が狭きに失したと思っており、今も街でネットで垂れ流されるヘイトスピーチの対策としては不十分ではとの懸念を持ち続けているし、法3条に規定された国民の努力義務に基づき公の機関(地方公共団体のみならず都道府県警察を含む)が何をどこまで出来るのか判然としない。

 とはいえ、今まで存在しなかった反差別を謳う法が制定されたことそれ自体は喜ばしく、この後の展開は、素人である自分としては専門家による精緻な分析や判例の蓄積とその評価を待つほかないと考えている。

 このような現状認識を前提に、以下では本邦におけるヘイトスピーチとその規制に関る議論の内、個人的に、いささか(正直に言えば相当に)「奇妙」に思えた二つの現象につき、思う所を垂れ流したい。

 

第2 「表現」か否か~ふるう必要の無い大剣とその重みを巡る不毛な議論~

1 ヘイトスピーチに関する法の制定(規制に踏み込まず、反差別の理念を定めるに留めるものも含む)を巡る議論が始まってから今に至るまで、しばしば、ヘイトスピーチ憲法21条1項にいう「表現」に含まれるのか?という問いが発せられた。

 これは、「仮に何らかの形でヘイトスピーチに関する規制がなされたとして、それが憲法21条1項で保障された言論の自由を制約することにはならないのではないか?」という問いだろう。

 公権力による国民の行為への作為・不作為(立法を含む)が憲法に違反するか否かを、①当該行為が憲法上保障された権利の範疇にあるか、②公権力の作為・不作為が当該行為を制約するか、③公権力による制約は正当化されるか、の三段階で考えるとすると、先の主張は①の段階で決着をつけようという主張と整理できるのかも知れない。

2 だが、このような戦線をはる必要性・合理性がどこにあるのだろうか?

(1) たとえば、斉藤愛「表現の自由の現況―ヘイトスピーチを素材として」(『論究ジュリスト』13号・2015年春号56頁)が指摘するように、日本国憲法21条1項は、「日本国憲法など即刻破棄してしまえ!」というような、現行憲法秩序の解体を志向する表現すら許容している。

 また、刑事法の世界に目を向けると、名誉棄損罪(刑法230条)に関する違法性阻却事由を定めたとされる(処罰阻却事由を定めたとする見解もあるが、愚見にはさして関係無いので割愛)刑法第230条の2がある。

 この規定は一般に、名誉棄損罪の保護法益である個人の名誉と憲法21条による正当な言論の保障との調和を図ったものといわれているが、逆にいえば刑法は我々素人の目から見れば名誉棄損と映る表現にも、表現の自由の行使として免責の余地を残していると言えるかもしれない。

 そうであれば、名誉棄損や侮辱の延長形態ともいえる(脅迫の要素もあるのでそれだけとは言い切れないが)ヘイトスピーチに、表現の自由の保障が全く及ばないとするのには相当な力技を用いなくてはならないのではないか。

 ヘイトスピーチ規制の議論に関して、ヘイトスピーチ憲法21条1項で保障される「表現」に入らないとの戦線をはることが戦略上合理的とはいい難い。

(2) また、仮に「ヘイトスピーチ憲法21条1項にいう『表現』に含まれるのである」としたところで、そこで話は「故にヘイトスピーチ規制は違憲」とはならないのである。

 憲法により保障される種々の自由権と雖も絶対無制約なものではなく「公共の福祉」(憲法13条後段)による制約は受ける(その意義に争いあるも、少なくとも他者の人権との調整が含まれることは争いがないはずだ)のである。そして、刑法典に脅迫罪や名誉棄損罪、侮辱罪が存在することからも表現の自由がありとあらゆる表現を絶対無制約に認めるものでないことは明らかである。

 そうであるならば、ヘイト規制に賛同する側は、先述した国家による制約が憲法に反するか否かを検討する3段階目、③公権力による制約は正当化されるかのレベルで十分に勝負が可能であろう。

 名誉棄損罪や侮辱罪と同様に個人の名誉や名誉感情を反対利益としてあげることができる(ヘイトの定義によっては、脅迫罪の保護法益である意思決定・意思活動の自由も含められるか)ヘイトスピーチ対策(この際ヘイトスピーチ「規制」でもよい)の議論は、③の戦線で戦えば十分である。

 ヘイトは「表現」ではないとの戦線を、無理矢理な力技を使ってはる必要性はさしてないのではないか。

(3) 以上述べたように「ヘイトは表現か否か」という空中戦を戦う必要性・合理性は特段存在しないと考える。

 むしろ、「ヘイトは表現ではない」などという抜く必要の無い大剣を振り回すことで議論がしばしば逆流し、あるいは「公権力の定義付けである表現が憲法21条1項にいう『表現』でなくなることを許すのか」といった、本来は省ける「大き過ぎる剣の重み」を巡る不毛極まりない議論が始まり、被害者の十分な救済は遅れるだけである。

 「ヘイトも表現であり、その規制は表現の自由の制約にあたる」とした上で、どの程度の制約なら許容されるか、制約の範囲が不当に拡大せぬよう「ヘイト」の定義はどうするべきかを議論した方がよほど実りがあると思う。

 

第3 片方が欠けた両天秤~「現代のヴォルテール」達が「見落とした」もの~

1 ヘイトスピーチ規制に関する議論が始まって以来、一部界隈でテンプレートのように引用され、水戸黄門の印籠が如く重宝されているものがある。

 ニーメラーやヴォルテールが残した(とされる)警句・格言の類だ。

 これらは表現の自由の重要性を説くものであり、自分も表現の自由が重要であることそれ自体には賛同する。

 しかし、先程、憲法上の人権とて「公共の福祉」による必要最低限度の制約は甘受せざるを得ないことや、その具体例ともいえる名誉棄損罪の存在で示したように、一切の表現が(それこそ、何の許可も得ずに他人の家の壁にペンキを塗りたくる行為まで)無制約に認められることはなく、原則には例外が存在するのである。

 そして、自分の極小さい観測範囲内でのことではあるが、ヘイト規制に賛同する人々は原則論の存在を認めた上で例外の必要性を主張しているのである。

 「現代のヴォルテール達」(さしあたり、上記したような警句・格言の引用・改変のみでもって「論敵」への「応答」は足れりとする者のことを指す)は、ヘイト規制賛同者が原則論を知っていることを前提に、例外を認める必要性の有無や、例外を認める範囲の議論に応答するべきではなかろうか。

2 また、「現代のヴォルテール達」が「見落とした」事柄として、「ヘイトスピーチによって、少数者は人格への著しい侵害を被るのみならず、日本社会において自由にものを言うという『表現の自由』そのものも制約されている」という事実があげられる。

 多少なりとも想像力が働くのであれば、少数派民族が、その居住する国で当該民族を対象とした「殺せ」「不逞〇〇人を国外に叩き出せ」との暴言を浴び、それに対して大方の多数派民族が静観を決め込む姿を見せられれば、(少なくとも一般的には)社会に向かって意見することに萎縮することは分かるであろう。

 「現代のヴォルテール達」は「我々の表現の自由が危ぶまれる!」と天秤の片方に乗る権利の重大性を強調して警鐘を鳴らすのだが、既に抑圧されている「少数派民族の表現の自由」などの、天秤のもう片方に乗る権利利益に関してはそれを「見落として」しまっているようだ。

 さもなくば、ヘイトスピーチの規制に関する議論は、とっくの昔に「政府による表現の自由の制約を認めるか否か」という表層的な議論から先に進んでいる筈である。

3 さて、このような「見落とし」は何故起こったのであろうか。

  まさか、「現代のヴォルテール達」は「人権とは少数者が頼る最後の切り札だ、多数派が『そんなものいらない』というものであっても守らねばならぬ!」と述べた同じ口で「が、わが国に居住する少数派民族の人権はこの限りでない」などという愚劣な二枚舌を使う訳ではあるまい。

 再三強調しているように、あくまで彼らは「見落とした」のだ。

 何故、彼らは「見落とした」のだろうか。

 おそらくは「人権の対国家的性格」であるとか「人権を制約してくるのは国家だ」という危機感が強く、その啓蒙に熱心であるあまりに、人権相互の調整という形での人権制約があり得ることをウッカリ失念してしまったのだろう。

 このような「見落とし」は、捜査官が、「その職務に熱心なあまり」に己が従うべき法令の存在を「失念」したり、法令が許容する範囲を「ウッカリ踏み越えてしまう」というのと同じ「熱意が起こしてしまったミス」なのかも知れない。

 いずれにせよ、ヘイトスピーチ規制の議論は虚空から降ってきた訳ではない、それによって保護されるべき利益の存在とその侵害が現在進行形で起きていることが前提になっている以上、そこに何らの目配りもしない不誠実な態度が許容されるとは到底思えない。

 

第4 おわりに

 表現の自由ヘイトスピーチ規制の問題に関して、しばしば「公権力がヘイトの定義を拡張し、国民の表現の自由を侵害してくるおそれがあるから規制には慎重であるべき」とか、「ヘイトの定義について全国民を巻き込んだ長期的な議論をしてから規制すべきで、対策法は拙速」といったことを説かれる方々がいる。

 懸念されることは分かる。しかし、前述したように少数派民族の言論の自由は既に抑圧されているのだ。

 してみると、彼らが問題にしている「国民の表現の自由」の内実は専ら「(人種としての)日本人の表現の自由」なのではないか。

 仮にそうであるとすれば、彼らの主張はこう言っているのと変わらないのではないか。

 「俺達、『大方の日本人』の表現の自由に火の手が及ぶかもしれないからさ、もうしばらくヘイト被害を我慢して受けててよ。」

 「そのような恥知らずな主張をしている訳ではない!」というのであれば、法ができるまでの少数派民族が被る被害への有効適切な手当を代案として示す必要があろう。

 一般論としては、あらゆる政治的議論に新作の代案が必要とは思わない。「現行の体制で十分」であるとか「そもそも問題は生じていない」との返答もあり得るからだ。

 しかし、ことヘイトスピーチに関してはそうではあるまい。被害の事実は国会議員による調査でも明らかにされている。現行法制度下での救済が十分でないことを指摘する論考も多く発表されている。

 そうであるならば、ことここに至って尚ヘイト規制に反対する側には「私もヘイトスピーチはいかんと思っている。」というアリバイ的な枕詞以上のものが求められるのではないだろうか。

 長い割に中身の無い文章で指摘した、二つの奇妙な現象が早々に解消され、専門家が本来の戦場でないところで不毛な争いに終始せず建設的な議論をリードされていくことを、一人の名もなき素人としては願わずにいられない。

(終)