未整理な愚見の垂れ流し

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新曲は野獣の情状弁護となり、古い歌は生き続けるか?~『美女と野獣』(ネタバレあり、書き下ろし曲の感想を中心に)

1 はじめに

 実写版『美女と野獣』(2017年)を見てきた。アニメは何度か見た記憶があるが、実写版を見たのは今回が初めてであり、劇団四季がやっている舞台なども未見。

 本記事では、映画への感想もちょこちょこ混ぜつつ、『美女と野獣』(2017年)に向けて新規に書き下ろされた楽曲3曲への「野獣に情状に関する弁護」という視点からの感想を述べたい。

2 ザックリとした総評

 楽曲への感想を語る前に、自分の本作品へのスタンスを記しておくと、観る前は元々ディズニー作品が好きだったこともあり期待する気持ちもあった半面、「①今の時代にリメイクするに際して、元の作品がもっていた問題を解消(少なくとも緩和)できているのか?②①を達成する為に行った改変・修正等の結果、新たな問題が生じていないか?」という点で懸念もしていた。

 観た後の感想としては、結論からいうと、懸念点①に関しては「概ねクリア」、②に関しては「許容範囲!」で、良い部分が沢山あったので総合して「何回か見返したい作品だな」と思った(現に、公開初日に観た次の日に2回目を観に行っている)。

 自分は、新規書き下ろし3曲は野獣の罪責に対する情状弁護の役目を一定以上果たしたと思っているが、自分以外の一般観客にどう受け取られたかについては分からないので、感想が気になるところである。

 前置きがひどく長くなったので、いい加減、楽曲の感想に移ることとする。

3 How Does a Moment Last Forever(Montmartre)

 新規書き下ろし曲のひとつめである『How Does A Moment Last Forever』が流れるシーン(エンドロールを「シーン」に含めてよいかは自信がないが……)は3つある。厳密にはサウンドトラック上でも区別されているように、この3つは別の曲と扱うべきなのだろうが、ここでは、「野獣の情状に関する弁護」という自分で設定したテーマと特に関係が深い、『How Does a Moment Last Forever(Montmartre)』に絞って記述することとする。

 ベルが、野獣が魔女から「逃避の為の贈り物」として渡された魔法の本の力によって、(おそらくは思い出の中の)パリにある自分の生家を訪ね、母の死の真相を知った直後に歌うのが、この曲の登場シーンだ。

 ベルは、母の最期について父モーリスから教えて貰えずにいたのだが、野獣の手助けによって、ついにその真相を知ることとなる。ベルの母はパリでベルを産んでから間もなく疫病に侵され、モーリスは感染拡大を防ぐために病状が悪化して死にゆく妻を置いてパリの家から離れなくてはならなかったのだった。

 この曲が流れるシーンの主役はベルなのだが、このシーンは野獣にとってはベルに対する(ささやかな)贖罪を行う場面でもあると思う。

 すなわち、野獣はベルを城に監禁することで、愛する父の下から引き離し行動の自由をも奪ったのだが、ベルに亡くなった母の存在と父モーリスの愛情の深さを確信する機会も提供したということである。

 もちろん、だからといって野獣がベルを監禁したことの問題が綺麗さっぱり帳消しになる訳ではなく、そのことはアニメ版の時から屈指の名シーンであるダンスシーンの直後、野獣の告白を受けてのベルの台詞「自由でないのに幸せにはなれない。」で再確認されるのだが、野獣のささやかな贖罪は彼の情状として斟酌すべき一事情になることは確かだろう。

4 Days in the sun

 新規書き下ろし曲の2曲目であるこの曲は、城から追い出されて森の中で狼に襲われたベルを助けて負傷した野獣が眠るそばで、野獣達が今の姿になった経緯をベルが城の従者達から聞いた直後に始まる。

 この曲はザックリ3つのパートに分解することができる。1つめが野獣の回想にかかる部分で、野獣となる前のアダム王子(野獣の正体)が(おそらくは病で)死んだ母の亡きがらに語りかけるように歌うパート。2つ目は城の従者達が呪いをかけられる前の楽しかった日に思いを馳せつついつか来る呪いが解ける日の希望を歌うパート。3つ目がベルが野獣達の身の上に起きたことを知り、また憧れるだけだった外の世界で危険に直面したことで自身に起きつつある変化に戸惑う気持ちを歌うパートである。どのパートも素晴らしいのだが、本稿では1パート目に限定して詳述する。

 このパートでは、今まで語られなかった野獣の過去が明かされることとなる。

 野獣、すなわちアダム王子は幼少期は心優しい少年であったが、母の死を境に残忍な父親によって人格を捻じ曲げられ、物語の冒頭で魔女に呪いをかけられるまでに傲慢・冷徹な君主になり果てたということが明らかになるのである。

 これは、「彼も根っからの極悪人であった訳ではなく、生育環境の問題から半ばやむを得ず今のような人格を形成するに至ってしまったのであり、彼にも汲むべき事情がある。」との弁護を行うものであり、今の時代に『美女と野獣』を実写リメイクするにあたって野獣の行為の問題を緩和する為の設定として重要なものといえる。

 もちろん、このような後付けを「『死人に口なし』とばかりに、死んだ親父に悪の一端を押し付けている!」という風に意地悪な見方をすることも出来なくはない。

 しかし、人がその成育環境によって人格形成に大きな影響を受けることは否定できないのだから「野獣の人格の歪みは野獣個人の問題である。」と断定しさることの方がむしろ無理があるといえる。また、新たに語られた設定も、既存の設定を「実は……」風に改変(悪く言えば変造)した訳ではなく、語られていなかったことを付加したに過ぎないことから、改変として行き過ぎているとまではいえず、個人的には意地悪な見方に与することはできない。

 ちなみに、野獣の「父親」という存在へのコンプレックスはベルを幽閉した直後でのベルへの態度にも現れている。

 城に少女がやってきたことで「呪いを解く切っ掛けができたかも知れない。」とベルの懐柔を進言する従者達に「あの娘の父親は盗人だから、その娘もろくでもないやつに決まっている」という趣旨の発言をし、ポット夫人に「誰が父親であるかでその人を決めつけてはいけない」と諌められ考え直すシーンがある。

 以下は完全に個人的な思いに依拠した解釈であるが、野獣は父親による教育を端緒に自身が歪んだ価値観を備えてしまったことにも、母親という心の防壁を失ってしまったことで自分が(おそらくはあまり好きでなかった)父親にどんどん似てきてしまったことにも(ある程度は)自覚的だったのではなかろうか。だからこそ、ベルに対しても「子は親の性質に染まってしまうものだ。」という決めつけをしてしまったのだろう。

5 Evermore

 パンフレット等の解説を見た訳ではないが、おそらくは本作の製作陣が「野獣の情状に関する弁護」において一番力を入れたのがこの曲ではないであろうか。

 魔法の鏡によって父モーリスの危機を知ったベルを、野獣が魔法の薔薇が枯れきってしまうまでに彼女が戻らない可能性が高いと知りつつ解放した直後に歌う曲である。

 自分を変えてくれたベルへの感謝と愛情を歌うと共に、しかしその変化が「あまりに遅すぎた」ことを後悔し、「長い夜が来る」と自らの運命への諦めを歌った曲である。

 この曲の“I learned the truth too late”というフレーズは、旧主題歌『Beauty and the Beast』の一節“Finding you can change.Learning you were wrong”を受けてのものだろう。「確かに自分の過ちに気付くことはできた。しかし、それは遅すぎたのだ。」という激しい後悔と反省を感じさせるものだ。また、この“I learned the truth too late”というフレーズは単に呪いの期限との関係での手遅れを表現しているのみならず「こんな手段(つまり、ベルの監禁である)に出る前にもっと前の段階で過ちに気付けた筈だ。」という意味にとることも不可能ではないだろう。

 いずれにせよ、この後悔と反省そして呪いの完結という自分を待つ運命への諦観を歌ったこの曲に、野獣の悔悟の情を示す効果があることは明らかだろう。

 「確かに悪いことはした。しかし、自分のやってきたことをここまで悔いているんだ。罰を受ける覚悟までしている。もう彼を許してやってもいいんじゃないですか?」と観客に訴えかける効果は絶大であり、自分のように短絡的な人間はまんまと落涙してしまった。

 もちろん、この歌が「ずるい力技」であることは否定し難い。曲のパワーと野獣の表情によって、問答無用で観客を「もう許す!」という気分にもっていってしまおうとするのだから、『美女と野獣』のもっていた問題点への緩和措置としてこの一曲一発で全てを不問に付させようとしていたなら、流石の自分も「それはあまりに……」と白けていたかも知れない。

 しかし、ここまで書いてきたように新実写版『美女と野獣』は、先に挙げた新規書き下ろし曲2曲によって「野獣の生い立ちにも汲むべき事情はある」「やってしまったことの中でも一定の贖罪はした」ことを示している。

 また、楽曲そのものとは直接関係しないところでも、野獣の「汲むべき事情」と「ささやかな贖罪」は映画の随所に配置されている。

 そうした「気遣い」の結果、『Evermore』による力技はそれほど強引でなく、観客に野獣を「もう救われていい人だ」と考えさせることに成功していると思う。

6 おわりに~物語は生き続けるのか?

 以上、縷々述べてきた通り、個人的な総括としては、新実写版『美女と野獣』における新規書き下ろし楽曲による野獣の情状弁護は「成功している」ということになる。

 しかし、これはあくまで「ディズニープリンセストーリーを見て育ち、(その癖に)傲慢で憤激しやすい捻くれた性格をもった男になり果てた」一人の男の感想に過ぎない。

 果たして、他の観客はこの物語をどう受け取ったのだろうか?

 個人的には、旧主題歌『Beauty and the Beast』の一節である“Finding you can change.Learning you were wrong”が非常に気に入っていることもあり、この歌(そしてこの物語)が問題を多分に孕んだ作品として風化するのは忍びないと思っている。

 新規書き下ろし曲と練り直されたプロットが広く受け入れられることで、『美女と野獣』という物語が末永く語り継がれることを願って止まない。