未整理な愚見の垂れ流し

TLに流すには長過ぎる愚見の垂れ流し場であり、未整理な頭の中の考えをぶちまける場所です

レディ・プレイヤー1を観て感じた「なんだかなぁ……」について

第1 はじめに

 以下には現在公開中の映画「レディ・プレイヤー1」(以下、本作品とする)に関するネタバレをそこそこに含んだ感想(と称した駄文)が垂れ流される。

 本作品への個人的感想を正直に申し上げると、「 CGの素晴らしさや昔見た版権キャラを散りばめたシーンの数々は懐かしく楽しんだが、全体としては凄くモヤモヤさせられた」という比較的否定的なものであった。

 そのため、本作品を心置きなく楽しんだ方が以下の愚見を人生の貴重な時間を費やして読むことは全くお勧めできない。

 映画の感想など十人十色で当然だし、自分が好きな映画に対する否定的な意見に心を痛めたり、或いはその者を「改宗」させようとトライすることは、多くの場合は心労を積み重ねるだけの徒労に終わるからである。

 したがって、本作品を心置きなく楽しんだ方や本作品のネタバレを恐れる方は以下の個人的な「お気持ちの表明」を読むことより、例えば足の爪に挟まってしまったゴミを掃除するなど、あなたの人生にとってより有益な活動に時間を使われることを強くお勧めする。

(一応、本作品を見て好ましく感じた部分を「お気持ち」の末尾にフォロー気味に入れてあるので、そこだけ見ていただく分には時間も取らず、精神を汚染しない……かもしれない)

第2 モヤモヤの概略

 本作品の鑑賞中に感じたモヤモヤのなかで特に強烈だったものを2つ挙げると、①物語がハッピーエンドげに締めくくられることへのモヤモヤ②主人公周辺のティーンエイジャー達が「ティーンエイジャーの皮を被った中高年オタ」に見えてくることへのモヤモヤとなる。

 以下、そのモヤモヤにつき幾らか詳しく述べていく。

第3 違和感①について

1 本作品で描かれる「現実世界」は資源枯渇と人口過多に打つ手がなくなったディストピア状態で、そこに生きる人々の多くは「頭打ち」になった現実世界そのものから逃避するためにVRオンラインゲームである「オアシス」に寝るときやトイレの時などを除く人生の大半の時間を費やして熱中している。

 そして、本作品の基本的なストーリーは、「オアシス」の創始者であるジェームズ・ハリデーがゲーム内に仕込んだ「イースターエッグ」を集め、オアシスのコントロール権とハリデーの遺産を勝ち取ろうとするゲームプレイヤー達と自社の利益のために「オアシス」を支配しようとする巨大企業IOI社とのゲーム内での争いを軸に進んでいく。

 最終的に主人公パーシヴァル(リアル名:ウェイド)は仲間達の助力やゲームを攻略するなかで学んだ創始者ジェームズ・ハリデーの過ちを活かし、「オアシス」のコントロール権とハリデーの遺産を受け継ぐことに成功する。そして、ゲーム攻略にオンライン空間でも現実空間でも大きな貢献をしてくれたアルテミス(リアル名:サマンサ)と結ばれ、その他の仲間たちと「オアシス」の共同経営に乗り出すところで映画は終わる。

2 さて、本作品の大半を占める「オアシス」での攻防は現実世界における致命的な問題(資源枯渇や人口過多)の解消と基本的に(というよりほぼ完全に)関係がない。つまり、物語がフィナーレを迎えても現実世界は物語冒頭で描写されたディストピア状態から一歩も改善しない。

 数少ない変化は、現実逃避先である「オアシス」の支配権が利益至上主義のIOI社の手に渡らなかったことで、「オアシス」が変質する危険は回避されたこと、「現実でしか味わえない感覚も大事にしよう!」という抽象的スローガンのもとパーシヴァル(ウェイド)によって「オアシス」に週2日のサービス停止日が設定されたことである。

 しかし、「週に2日は現実に帰ろう!」と言われても、その程度でどうにかなるディストピアならこんな事になっていないとしか言いようがない。多くの人々はこの世界の現状を変更・改善することをとっくの昔に完全に放棄してしまっており、だからこそ「オアシス」は最高の現実逃避先として人々に熱狂的に支持され、大企業はその価値を我が手にしようとしていたのである。

 パーシヴァルのフィナーレでのセリフは、最低な現実世界のなかで相対的に非常に高い地位を得た成り上がり者が、成功した途端に、今もかつての自分と同じくらい過酷な現実を生きている昔の同胞たちに、中途半端な形で、最低で変え難い現実と向き合うよう説教しているようにも映った。

 要は非常にシバキアゲ気質っぽいものを感じてしまったのだ。そこが非常にモヤモヤした。「現実でしか味わえない感覚もある。だから現実も大事にして」という方向に話を収束させること自体には何の異論もないので、もうちょっと上手い落としどころはなかったのだろうか。

第4 違和感②について

1 物語は2040年代を舞台にし、物語の中心人物はティーンの子供たちである。

 しかし、その彼らがここぞというときに頼りにするのが「バックトゥザフューチャー」(一作目は1985年公開)のデロリアンだったり、1stガンダム(1979年)などの「昔懐かしのアレ」というのはどういうことなのだろうか。

2 自分もクラスメートが「GANTZ」や「バキ」に夢中になっている時期に「デビルマン」や「サイボーグ009」を読み漁る中学生時代を送っていたので、そういう子供がいること自体があり得ないなどという気はない。しかし、一定の「説明」がないと不自然なキャラクターではあろう。

 例えば、「ゲームのヒント探しをしようとジェームズ・ハリデーの青春時代を辿る内に、彼の時代のオタクカルチャーにはまった。」という描写でもあれば割とあっさり納得できたと思う。しかし、そうした説明もなく2040年代のVRネットゲームを遊ぶティーンエイジャー(しかもトッププレイヤー集団である)が1970~80年代の作品に強い愛着をもっていることには違和感しか感じず、「こいつら、ティーンの皮を被ってはいるけれど中身は1980年とかに青春を過ごした我々観客の世界の中高年オタなのでは?」との疑念を拭えなかった。

3 この「こいつら中高年オタなのでは?」疑惑と前述した「パーシヴァル君、シバキアゲ気質」疑惑が合わさったことで、本作品のラストのセリフが「成功し、増長したイキり中年オタクによる、かつての同類達や若者へのウエメセシバキアゲ説教」にも感じられ、本作品を思い返すときに感じる「なんだかなぁ……」度数が飛躍的に上昇してしまった。

 少し上で書いたように、この「ティーンのふりした中高年」問題は、間に簡単なロジックを1つ挟めば解消される問題だと思うのだが、自分が見落としていただけなのだろうか。

第5 若干のフォロー

 本作品が頭の先から爪先まで駄目なものに感じたかというとそんなことはない。

 美麗なCGで懐かしいキャラクターが動き回っているのは単純に嬉しかった。IMAX3Dで見る序盤のレースシーンなどは結構ニコニコして観てしまったくらいだ。

 全体的に掘り下げ不足だと感じたが主要登場人物の描き方に現代っぽい感じがしたのはよかった。

 例えば、屈強強面でいかつい男性ボイスのアバターを使用しているパーシヴァルの悪友エイチがある女性NPCにドキドキしてみせるシーンとその後に分かる「彼」のリアルには今日的なキャラクターを読み取ること「も」できるし、アルテミス=サマンサをステレオタイプなトロフィーガールにせずちゃんとしたバックグラウンドをもった戦う女性キャラクターにした(少なくとも自分にはそう映った)点などには「今の映画だな」と好印象だった。

 また、同じ映画館で観ていた小学生たちやファミリー層は結構楽しんでいたようであり、自分は彼らに比べて優れた見る目をもっている等と豪語する気は殆んどない。

 第1でも述べたことではあるが、映画の感想など十人十色で当然であり、自分の畢竟独自の見解には何の権威も無いのであるから、うっかりこの記事を頭から最後まで読んでしまわれた本作品のファンの方々には「あなたの人生に迷い出るとは悪いことをした。気にせず、本作品の良いところを世の中に伝えてくれ」と思っている。

 なお、事実誤認に関しては気付き次第修正する気はあるので、教えていただけると助かります。

                                     以上